nisesukaの毎日がピンチ。

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東日本大震災で帰宅難民になってしまった話

…中途半端な時間に寝てしまい、起きてしまった。
ふと、記憶が曖昧にならないうちに、あの時のことを記録に残しておこうと思いつき、この記事を書くことにした。
なお、上記の通り記憶がすでに若干曖昧になってしまっている部分があるかとは思うので、その点はご容赦頂きたい。


<あの日>
2011年3月11日。あの日は、札幌の先輩が東京へ出張に来ており、その日に羽田空港から帰るというので見送ることにした。

そしてあの時が。

私と先輩は当時空港内の飲食店にいたのだが、最初携帯から緊急地震速報のアラームが鳴って、なんだ?となった。
その後数秒の間をおいてユラユラと揺れ始めた。最初の一瞬はそれほどでもなかったが、徐々に揺れが一気強くなり始める。
揺れ始めてから十数秒で座っていてももはや体が左右に揺られ、机に捕まらないと体が持っていかれるようなレベルの揺れになり、店内のカウンターに積んであったお皿が崩れ始め、水槽の水はやや長い周期の大きな揺れで溢れ始める。
天井から吊り下げられた照明も大きく左右に振られ、天井にぶつかるのではないかという勢いであった。

揺れは3分程だっただろうか。まるで荒れた大海上をゆくフェリーに乗っていたような感覚であった。それか例えは悪いが、まるでプリンの上で揺らされるような状態であった。またフェリーのようなその感覚が揺れが終わったあとも続いてしまった。

それまで私が体験した最大の震度は、2000年初頭の十勝沖地震での震度4。当時の羽田空港は5弱〜5強とのことだが、ただただ怖かった。


その後十数分くらいは引き続き飲食店にいて、揺れが治まり始めた頃から当時使っていた携帯(ガラケー)でワンセグを立ち上げる。
最初に選択された日テレを見ると、「宮城で震度7」の赤字テロップが映り、大変驚いてしまった。
私は正直、日本が終わってしまうのではないかと不安を口にすると、先輩からそんなことは言ってはいけない、とお叱りを受けてしまう。
ワンセグをザッピングするが、テレ東でも緊急ニュースとなり、事の重大さが徐々に認識できるようになってきた。


その後、20〜30分後だろうか、空港内の各飲食店はガスの関係とのアナウンスがあり急遽閉店、先輩と共に店を出た。


この頃になると、搭乗口は大混乱に陥っていた。そして数える暇もないほど余震が続き、恐怖を煽られてしまう。


先輩と、これからどうするか、なんとか羽田の島から歩いてでも出て一番近い大きい街である蒲田周辺で宿は空いてないか、携帯でページを探したり、いやもう飛行機が飛ばないのは明白な状況なので、とどまった方が懸命か。
空港総合案内所で、羽田から出る手段を聞くが、さすがに京急、モノレール、それに空港連絡バスも運休状態とのこと。


そして先輩はその日は帰るのをあきらめ、空港内で1泊。私はなんとかタクシーの列に並んででも、自宅方面か一番近い湾岸の当時の友人宅までは行くことに。


空港ロビー内はまさに帰宅難民の映像の通り、ロビーに座り込んだり鞄を枕にして寝たりする大勢の人で埋め尽くされた。空港会社や各航空会社から毛布が配られたようでそれを羽織る人の姿も多く見られた。
そして私は、3月初旬の東京にしては寒かった外のタクシー乗り場の長蛇の列に並び、ひたすら待つことに。


その後2時間後ほどだろうか、ロビー内で1泊を決めた先輩から、改めてロビー内の状況、それに温かい差し入れを頂く。
最初私は遠慮したが、今後どうなるかわからないと言われ、感謝を込めて頂くことに。さすがに2時間以上も外で立ちっぱなしだと寒さが堪えてきていたので、大変ありがたかった。感謝である。
そしてその時、先輩から気になる言葉を聞いた。
空港ロビー内には大型モニタでNHKが映っているはず…と聞くと、先輩は「津波に流されている映像が生中継やVTRで繰り返し流れている、あれは見ない方がいい…。」と。
この時私は正直この言葉の意味を理解できなかったが、後に理解できることとなる。


並び始めてから約5時間、時間は21〜22時頃だろうか。待てども待てどもタクシーが来ない。本当に来ない。感覚としてはだいたい30分に1台来ればいい方だろうか。
「賃走」のタクシーは時々見るのだが、それでも少ない。また、迎えに来たのであろう一般の乗用車は22時を回った頃からようやくポツポツと見かけるようになった。

いくら大地震とはいえ、ここは羽田空港である。一体どういうことなんだろう…と当時は情報がわかっていなかった。
地震直後から携帯でワンセグやネットを使っているうちに電池は切れてしまい、ずっと外のタクシー乗り場に並んでいたので、情報から事実上隔絶されてしまっていたのだ。


23時頃だろうか、あまりに来るタクシーが少ない、走ってくるタクシーも、タクシー乗り場の係員の方が止めようとしても中々止まってくれないので、ある程度向かう方向が同じ人同士での相乗りが推奨されるよう、係員の方からアナウンスがあった。
その頃到着したタクシーの運転手さん曰く、「都内はびっくりする程の大渋滞で全く動かない。目黒や学芸大学方面へは数時間、1万円以上はかかるのではないか。」とのこと。
それを聞いて、どうやら羽田の島の外では大変な状況であるということは、言葉ではわかったが、この期に及んでも実はピンと来ていなかったのが正直なところである。


そして日付も回って深夜1時半頃、並び始めてから8時間は立つだろうか。私は先程のタクシー運転手の話から、第一京浜から西側(内陸側)は大混雑状態であり、当時自宅があった品川区内陸側への帰宅は困難と判断。当時羽田から一番近い湾岸沿いの品川シーサイド方面の友人宅であれば、湾岸沿いの道路ならばそこまでの混雑は無いだろうと思い、浦安方面へ行くという方とタクシー相乗りで乗ることにした。


しかし、その見込みは甘かった。羽田から少し出た所の首都高の電光掲示板には「大地震発生!今すぐ降りよ!全面封鎖!」の赤文字が。
羽田の島を抜けた辺りまでは比較的順調に進んだが、それもわずかであった。まさに大渋滞としか表現しようのない状況に遭遇する。

すでに時刻は1時半を回り、本来であれば渋滞など無いはずの時間帯だが、一般道には車、車、車…。大渋滞、いやもはや交通マヒと言った方がいい状態であった。交差点内ですら車が密集し、ほぼ動きようがない状態なのである。
普段の東京であればそこまでクラクションを聞く機会もないのだが、常にクラクションがあちこちから聞こえる状態。
車窓から見える車のカーテレビはいずれもNHKの緊急ニュースを点けていたのが見えた。また、公共交通機関が全てストップしてしまったための迎えの車だけではなく、社用車や営業所名を車体に書いたバンも多く見受けられた。恐らく昼間に営業に出て、その後営業所に戻ろうにも戻れず…といった状態なのであろう。

湾岸沿いの産業道路的な道路から、少し市街地の道路に出るも、そこも当然ながら車で全く動かない状態。
繰り返すが深夜すでに2時近い。にも関わらず反対車線で渋滞にハマっていた八潮パークタウン行きの都バスは、通常であれば、この時間に遅延で走っているとしても「深夜バス」表示であるはずだが、そのバスは通常の表示、つまり本来ならば22時台のバスであると思われる。
品川駅始発であるはずなので、恐らく3時間以上は走っているのであろう…。
この時間にも関わらず、多種多様な車で小道も大通も埋まるまさに異様な光景…。

ようやく目的地の友人宅(当時)近くに。すでに歩いた方が早い距離であったので、少し離れた所で相乗りの方と別れ下車。友人宅のマンションに向かう。


すでに携帯の電池は切れてしまっていたので、事前連絡無し、しかも深夜2時を回る突然の訪問で気が引けたが、受け入れてくれた友人に感謝である。


そこで、ようやく初めてNHKのあのニュース映像を見ることになる。そして次々に読まれ表示される地震の規模、被害に驚く。まさかこんな大災害になっていたとは…。
空港で先輩が言っていた「(NHK津波生中継の映像)あれは見ない方がいい…。」の意味もこの時ようやく知ることとなった。

非礼を詫びるのもそこそこに、携帯充電の用意と睡眠準備を急いでする。友人のアドバイスで、NHKテレビは点けっぱなし、またいつでも動けるよう、外着のままで寝た方がいいということで、ジーパンのまま寝に付くことに。
…しかし当然ながら携帯のアラームは鳴りっぱなしである。
朝6時頃であったと記憶しているが、長野・栄村で震度6強のもあり、本当に日本が終わってしまうのではないか、また単純に緊急地震速報のアラームが鳴り続ける状態では正直恐怖で寝付くのも難しかった。


<翌日(2011年3月12日)>
睡眠不足と恐怖の中、待ちに待った夜明けである。友人2人と私の合わせて3人は皆さすがに睡眠不足で疲労の色は隠せない。
窓の外を眺めてみるが、さすがに渋滞はかなり解消したようだ。しかし長距離と思われるトラックは路上駐車されっぱなしで、車内の運転手さん達も途方にくれているようだった。
当日は前日とは打って変わって晴れて日差しもあり暖かく、窓から見える公園で遊んでいる親子連れグループの方を見た時はなんだかホッとしたのを覚えている。


深夜突然の訪問と泊めていただいたお礼に、また街の様子を見に行くために、徒歩で近くの品川シーサイドイオンに私は3人分のご飯を買いに出た。
途中コンビニがあり、公衆電話が目に入った。東京でも緊急措置が適応され無料でかけられると聞いていたので、遠方に無事を知らせた。
軽く買い物ついでに店員氏に入荷状況などを尋ねると、「今はまだ多少店に在庫があるが、やはりトラックが来ない。まだ当面厳しいようだ。」とのこと。


そしてシーサイドイオンに到着。
地下の広い食料品売場は、近くのマンション群に住む方々であろうファミリーなどで大混雑していた。さすがにあれだけの大地震の後とあってか、箱買いしている人が多く見受けられたのが印象的であった。

そのついでと言ってはなんだが、りんかい線品川シーサイド駅がどうなっているか確認しようと地下広場入口まで歩く。
するとシャッターが降りており「りんかい線は、東京湾津波警報が発令中のため、品川シーサイド駅天王洲アイル駅は解除まで通過となり利用できません。」とお詫びの張り紙が。このようなこともあるのか、と大変驚いた。


3人分のご飯+αを買い、友人宅に戻る。
ちょうど昼頃であろうか、例の原発の状況が刻一刻と伝えられる。

その後、友人2人は一旦西日本の実家に新幹線で戻るということで、都バスで品川駅へ。

2人を見送り、私は再び都バスで品川駅から麻布十番方面へ行く路線に乗った…ように記憶している(※この辺は若干記憶が曖昧である)。
その車内でワンセグ日テレを見ていたが、例の原発メルトダウンと速報テロップと見出しが流れ、この時バス車内なので無音マナーにしていてもわかる程度にはスタジオが騒然となっているのが伝わる混乱具合が流れていた。

そしてそれを見て何を思ったのか、『地下深い地下鉄を使えば大丈夫ではないか』と考えてしまい、赤羽橋駅麻布十番駅で急遽下車し都営地下鉄大江戸線に乗車。
その後どうやって帰宅したのか記憶が無いのだが、14時頃、当時の品川区内の自宅マンションに帰宅することができた。
実に丸1日帰宅できなかったことになる。


幸い自宅マンションには大きな被害は無く、モノが散らばっている程度ではあったが、台所窓上に置いてあったまな板が2m近く先の床に飛んでいたのには驚いてしまった。もし在宅中であれば、大層驚いたに違いない。

確かに帰宅難民にはなってしまい、寒風の中8時間以上並んだりはしたが、先輩や、急の訪問にも関わらず泊めていただいた友人2人と一緒にいたことで不幸中の幸いか、ずっと一人で発災直後を過ごすよりは比較的気持ちを落ち着かせて過ごせたのかもしれない。
人の温かさを感じた瞬間でもあった。


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4年前の記憶を思い出しながらなので、雑な文章にはなってしまったが、帰宅難民の一人となってしまった体験談は、一個人のものなので大したことは無いと思うが、記録しておいて損はないだろうと考え、この記事を書くことにした。
(※Wikipediaソース<http://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災による帰宅困難者>ではあるが、当時首都圏では約515万人が帰宅困難者となったとのこと。)

ここまでの長文雑文をお読みいただきありがとうございました。


また、このブログでは既に説明不要であろうが、今も多くの方が大変な思いをされている。
1日も早く被災された方が元の生活を取り戻すことを願ってやまない。またとても多くの方が亡くなっている。ご冥福をお祈りいたします。

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